安部公房『(霊媒の話より)題未定』

安部公房の「天使」という短編が見つかって、文芸誌の『新潮』に掲載されたのが昨年末で、ちょっと話題になった。『新潮』は増刷されたらしい。
「天使」は、1946年、満洲からの引き揚げ船のなかで書かれた短編だという。
このところ、満洲のことばかり調べていて、引き揚げの過酷な状況がつづられた当事者の手記は、いくつか読んだ。

引揚げ輸送というと、客車に乗って港まで直行し、そこには引揚げ船が待っていて、一路日本の港へ向かい、すぐに上陸と思われがちであるが、実体はそんな生やさしいものではなかった。列車はほとんど無蓋の台車で、港まで直行することはなかった。途中で降ろされて、そこの収容所で二週間から三週間ぐらい待機させられる。その間に、一人でも伝染病患者が出ようものなら、大隊全員が検査にあい、保菌者がなくなるまで、一ヵ月でも二ヵ月でも滞留させられることになる。
やっと乗船して日本の港に着いても、検疫のために何日か待たなければ上陸させてもらえない。そして、ここでも伝染病患者が出れば、故国の山河を眼の前にして、十日も二十日も、船上に留め置かれる。

太田正(1984)『満州に残留を命ず』草思社

じっさい、安部公房は「一ヵ月余の船中生活を余儀なくされた」らしい。
ところが、船中で書かれたという短編には、そういう逼迫感をにじませる内容も文体も、感じられない。
理詰めの思考と、詩的な文体がそうさせるのだと、ずっと前から思っているのだけれど、それにしても、この未発表だった「天使」は、すでに安部公房である。

同書に収録されている、「鴉沼」を再読(『全集』にも掲載)。1948年の発表作品。満洲奉天が舞台。
「渦を巻いて舞う鴉の大群」が、不気味な印象を与える。
そういえば、遺作となった『飛ぶ男』でも、トイレの窓ガラスを襲う鴉が強烈だった。

やはり鴉だ。間違いない。
巨大な嘴、充血した赤目、磨きあげられた鋼鉄色の翼、盛り上がった肩、いかにも猛禽らしい瘤だらけの頭……

「飛ぶ男」を読み返していたら、安部公房じしんの満洲の記憶が垣間見えたような気がしたのだけれど、書くとこじつけになりそうで、やめとく。