宮崎駿「風立ちぬ」

家族で、話題作、「風立ちぬ」を観てきた。
2日前まで奥さんの郷里に帰省していて、義理の母が「おもしろかった」と言っていたのは「風立ちぬ」ではなくて、百田尚樹永遠の0』で、「貸してあげる」と言われたのだけれど、滞在のあいだにすらすらと読んでしまい、まあ、200万部売れているというだけあって、読みやすかった。
いかにも放送作家らしい、ストーリィテリング。
もう一冊、『影法師』という本は滞在中読み切れず、借りて帰ってきた。
『永遠の0』は、零戦パイロットの話。
風立ちぬ」は、零戦開発者、堀越二郎の話。『永遠の0』にも、堀越二郎の名前は、いちどだけ登場していた。
 
僕は、とりたてて、ジブリ映画、というか宮崎駿作品がが好きではない。嫌いではないけれど、熱心なファンではないということだ。
作品を深読みするのは、僕の性にあわない。
だから、凝った動画のシーンに出くわすと「よくもここまでやるもんだわ」と半分呆れて思うし、ストーリィについては「子供は楽しいんだろうなあ」という感想で終わってしまう。
 
しかし、「風立ちぬ」。これは素晴らしくよかった。
どこまでが実話かと疑って調べてみると、堀越二郎と結婚する里見菜穂子は、実在しない映画オリジナルの人物らしい。映画で描かれる堀越二郎のキャラクターも、じっさいとはかなり違うのではないかと訝る。
 
しばしば思うのだけれど、絶叫する映画が多い。愛する人の名前を叫んだり、怒鳴ったり、悲観して砂浜で砂を握りしめながら泣いたりする。
あほか、と思う。そんなに、人は、叫ばない。
風立ちぬ」では、関東大震災が描かれる。町が焼ける。2013年にこの映画を観ている者としては、もちろん、思いだすものがある。
しかし、堀越二郎は叫ばない。汽車に乗りあわせた里見菜穂子を送り届けて、立ち去るだけである。
これは、この映画の描かれかたの、根本的なところではないかと思う。
なにしろ、零戦の開発者だ。最後に、「一機も還ってきませんでした」と無念をあらわすセリフはあるが、堀越二郎は、戦争に利用されるであろう、そして最終的には特攻部隊に使用される零戦とは関係なく、目の前の「飛行機」の開発に没頭する。
彼が開発したのは、より高性能で速度のある「飛行機」で、その完成物が「零戦」と名付けられたに過ぎないと、感じる。
 
ファインマン博士が、マンハッタン計画にかかわっていたことは事実だが、彼のエッセイで、そのことについて罪の意識を感じたり、後悔したりするくだりがまるでなかったことを思いだした。
 
堀越二郎の声は、庵野秀明。起伏のない、淡々とした言い回し。上手いとか下手とかわからないけど、堀越二郎のキャラクターにはふさわしい。
 
震災にしても、零戦にしても、多くの犠牲者があった。『永遠の0』は、そのひとつひとつを掘り起し、書き残そうという、努力がみられる。しかし、薄っぺらい。
風立ちぬ」ではどうか。
墜落し、失敗に終わった開発機の残骸が横たわるのを、堀越二郎が見つめるシーンがあるが、涙も叫びもなく、観客は、せいぜい、あの操縦士が、無事に落下傘で生還できたかを心配する程度である。しかし、ひとりひとりが、きちんと描かれている。
 
そして、多くが語られない、エンディング。監督は、観客を突き放している。
夢の世界の描写が多いのは、楽しい(これは、突き放した観客への、監督からのプレゼントだ)。