山口果林『安部公房とわたし』(ちゃちゃっと読みました)

真知の公房に対する絶対の尊敬は、かげりを見せた。こうしたことがふたりの関係に変化をもらたらし、結局、公房は最後の数年、芦ノ湖を見下ろす国立公園内にある山荘にひとりこもって暮らすようになった。
安部ねり安部公房伝』(新潮社、2011)

山口果林安部公房とわたし』を読了。ブックカバーの写真を見るに、とてもきれいな人だと思う。

それはそれ。
本の内容は、「暴露本」というほど意地の悪いものではなく、とりわけ『箱男』以降の安部公房の生活を知るための、重要な証言のひとつとなりうるのだとは思ういっぽう、あまりよい読後感ではない。安部公房自身が、隠しておきたかったとされていることが、赤裸々に語られてしまっていると、それ以外の理由を見つけられないのだが、著者(山口果林)が、あくまで、「自分史」と主張しているのだから、そういうことで納得するしかない。読後感が悪いのは、「安部公房自身が隠しておきたかったこと」が、じつは、僕が、知りたかったことだったということ、そして、知ってしまったということにも起因するのだと思う。
こういう本は、いちど読んで、本棚の奥深くに仕舞いこむのがいいのかもしれない。
いや、まあ、しかし、と思うのだ。
僕は、学生のとき、大学の生協で、生協員価格(1割引)の『安部公房全集』を毎月、せっせと買いつづけていたわけで、しかし、それまで、買って読むことのできる作品はあらかた読んでいたから、何が楽しみだったかというと、書簡やメモ、それから、全集に挟まれた「贋月報」だった。「贋月報」には、安部公房を知る人たちのインタビューが載っていた(インタビュアーは、安部ねりさん。インタビューは、前掲『安部公房伝』にすべておさめられている)。
要は、刊行されている安部作品ではなく、知られざる安部公房の一側面を知りたいという欲求が、間違いなくあった。
そして、その、最たるものが、今回の山口果林安部公房とわたし』である。
 
じつをいうと、安部ねり安部公房伝』が出版されたときにも、それは期待した。
が、ほとんど、肩透かしに終わった。「3,200円もしたのにナー」と思いながら、目新しいことは、ほとんど書かれていなかった。加えて、(全集においてはすばらしかった)近藤一弥の装丁も冴えなくて、カバーの用紙の上で、ワープロに向かう安部公房の写真のプリントが歪んで浮いてしまっていたり、ページの用紙がやけに厚くてめくりにくかったり、「やっつけの本だナー」と思った。これも、1回しか読んでいない。
 
山口果林安部公房とわたし』のブックデザインは、鈴木一成デザイン室。しかし、冴えない装丁である。
本のタイトルも垢抜けないし、文章も決してうまくない。安部公房の関心ごとだった、ピジンクレオール言語や、遺伝生物学、アメリカ論などにも多少触れられているけれど、ちょっと注意して読むと、著者はあまりきちんと理解していないことがわかる。
つまるところ、「暴露本」なのだ。
 
安部公房の取材力、交友関係、癌のこと、作品の描写と生活との関係など、はじめて知ったことがらもたくさんあるなか、しかし、知ってしまえば、たかがそれだけのことと思ってしまう。安部公房が、あえて語らなかったことが、書かれているという、読後感の悪さ。
 
中島らも夫人の、中島美代子が出版した『らも』を読んだときには、そんなふうには感じず、むしろ、中島らものあらゆるエッセイよりおもしろい! と驚愕したほどだったのだが、それとも違う。
 
なんでなんでしょうねー。