渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』

渡邊十絲子今を生きるための現代詩』(講談社現代新書)は、おもしろい。

詩を読む人、詩を書く人、読まれたし。

 
僕がいつも考えていることがあって、それは、どうして歌には、詩(詞)がついているのだろうか。
父親が「かぐや姫」の「22才の別れ」を聴きながら、「いい詞だ」と言っていたのを聞いたのが、そもそものきっかけである。
22才の別れ」に限らなくても、ロックやポップスや、演歌や、歌謡曲には、「いい詞」と言われるものが、たくさんある。
ヒットを目的として、作詞家がつくったものならまだしも、ミュージシャンが書いた詞が「いい」のは、なぜか。
22才の別れ」は、作詞作曲ともに、伊勢正三である。
彼は音楽家で、楽器が弾けて、曲がつくれて、うたうことができる。加えて、詞が書けてしまうとは、どういうことなのか。
 
「いい詞」ってのは、マキハラノリユキみたいな、聴衆をはげまして、生きることに前向きにさせるように仕向けた種類の詞(「ガンバレ」系)のことではない。
千の風になって」みたいな、「なんかよくわからんけど、感動してしまう」類のでもない。
 
音楽に詞が乗っかっているから、詞を口ずさむ。
詩集なんて誰も開かないのに。
何だ、「いい詞(詩)」って?
 
音楽についている詞は、みんな、率先しておぼえてうたう(みずからの口から発する)ことをするのに、かたや「現代詩」となると、谷川俊太郎の顔くらいしか思い浮かばなくて、好きな現代詩を暗唱しろなどといったら、99パーセントの人が、できないんじゃないかと思う。

僕は、詩は書かない。書いたこともない。
いや、いちどだけ、作詞を頼まれたことがあって、どうしていいかわからず、「玄界灘」という名のホモの相撲取りの詞を書いた。「玄海」と「限界」をかけたつもりだったが、理解してもらえたかどうか。
書いて送ったあと、どうなったかは、知らない。
 
渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』は、「22才の別れ」が「いい詞」であるかどうかの答を与えてくれる本ではないけれど、おそらく、これまでにはない、詩を読むための、なんらかの指南書にはなってくれる。指南書、というか、読むのも私、考えるのも私、なんだな。