B.Z.ゴールドバーグ他「プロミス」

夕方から、池袋へ。

B.Z.ゴールドバーグ(他)監督「プロミス」観る。2001年の映画。
イスラエルに住むユダヤ人の双子の少年が、パレスチナ人の少年に会いにパレスチナ自治区を訪れるドキュメンタリー映画と書けば、嘘ではないのだけれど、何も説明していないに等しくて、もうちょっと詳しい解説は、小林エリカこの気持ち いったい何語だったらつうじるの?』で読めるのだけれど、読んでなにかをわかったつもりになったら、それは嘘で、映画を観ないことには、なにもわからない。
映画は2001年の公開で、しかしそのあとにも、レバノンやシリアを巻き込んだ紛争が続いている。もう、12年が経っているわけで、当時、あの少年少女らは12歳くらいだったのかな、「2年後」の映像が最後に流れるけれど、15歳くらいにも見える。それにしても、今は20代半ばか30歳手前だとして、彼らが兵役に就いたかどうかはともかくとしても、いまも生存しているかさえ、わからない。もしかしたら、何かをアピールするために、フェイスブックとかで情勢やオピニオンを公開しているのかもしれないなと思う。思うけれど、僕は、検索しない。検索しないのは、映画を観ながら、僕は、彼らがずっと、ボールやレスリンごっこで遊ぶ子供であればいいなと思ったからで、最後に「2年後」の映像が流れたときにも、正直なところちょっとがっかりしたのだけれど、それは「2年後」という明らかな現実で、遊んで、別れに涙する子供たちの映像で終わったとしたら、それこそ、ある意味、無責任だったのかもしれない。しかし、観る者としては、「2年後」くらいの成長と少し大人っぽくなった発言くらいがちょうどいい。「12年後」は、想像がつかない。この日本から発することのできるメッセージなんて、なにもない。
イスラムにちょっと関心があるらしい奥さんにも観てもらいたかった映画なのだけれど、次のが借りたいから、ぽすれん、返却する。

  

宮崎駿「風立ちぬ」

家族で、話題作、「風立ちぬ」を観てきた。
2日前まで奥さんの郷里に帰省していて、義理の母が「おもしろかった」と言っていたのは「風立ちぬ」ではなくて、百田尚樹永遠の0』で、「貸してあげる」と言われたのだけれど、滞在のあいだにすらすらと読んでしまい、まあ、200万部売れているというだけあって、読みやすかった。
いかにも放送作家らしい、ストーリィテリング。
もう一冊、『影法師』という本は滞在中読み切れず、借りて帰ってきた。
『永遠の0』は、零戦パイロットの話。
風立ちぬ」は、零戦開発者、堀越二郎の話。『永遠の0』にも、堀越二郎の名前は、いちどだけ登場していた。
 
僕は、とりたてて、ジブリ映画、というか宮崎駿作品がが好きではない。嫌いではないけれど、熱心なファンではないということだ。
作品を深読みするのは、僕の性にあわない。
だから、凝った動画のシーンに出くわすと「よくもここまでやるもんだわ」と半分呆れて思うし、ストーリィについては「子供は楽しいんだろうなあ」という感想で終わってしまう。
 
しかし、「風立ちぬ」。これは素晴らしくよかった。
どこまでが実話かと疑って調べてみると、堀越二郎と結婚する里見菜穂子は、実在しない映画オリジナルの人物らしい。映画で描かれる堀越二郎のキャラクターも、じっさいとはかなり違うのではないかと訝る。
 
しばしば思うのだけれど、絶叫する映画が多い。愛する人の名前を叫んだり、怒鳴ったり、悲観して砂浜で砂を握りしめながら泣いたりする。
あほか、と思う。そんなに、人は、叫ばない。
風立ちぬ」では、関東大震災が描かれる。町が焼ける。2013年にこの映画を観ている者としては、もちろん、思いだすものがある。
しかし、堀越二郎は叫ばない。汽車に乗りあわせた里見菜穂子を送り届けて、立ち去るだけである。
これは、この映画の描かれかたの、根本的なところではないかと思う。
なにしろ、零戦の開発者だ。最後に、「一機も還ってきませんでした」と無念をあらわすセリフはあるが、堀越二郎は、戦争に利用されるであろう、そして最終的には特攻部隊に使用される零戦とは関係なく、目の前の「飛行機」の開発に没頭する。
彼が開発したのは、より高性能で速度のある「飛行機」で、その完成物が「零戦」と名付けられたに過ぎないと、感じる。
 
ファインマン博士が、マンハッタン計画にかかわっていたことは事実だが、彼のエッセイで、そのことについて罪の意識を感じたり、後悔したりするくだりがまるでなかったことを思いだした。
 
堀越二郎の声は、庵野秀明。起伏のない、淡々とした言い回し。上手いとか下手とかわからないけど、堀越二郎のキャラクターにはふさわしい。
 
震災にしても、零戦にしても、多くの犠牲者があった。『永遠の0』は、そのひとつひとつを掘り起し、書き残そうという、努力がみられる。しかし、薄っぺらい。
風立ちぬ」ではどうか。
墜落し、失敗に終わった開発機の残骸が横たわるのを、堀越二郎が見つめるシーンがあるが、涙も叫びもなく、観客は、せいぜい、あの操縦士が、無事に落下傘で生還できたかを心配する程度である。しかし、ひとりひとりが、きちんと描かれている。
 
そして、多くが語られない、エンディング。監督は、観客を突き放している。
夢の世界の描写が多いのは、楽しい(これは、突き放した観客への、監督からのプレゼントだ)。

  

山口果林『安部公房とわたし』(ちゃちゃっと読みました)

真知の公房に対する絶対の尊敬は、かげりを見せた。こうしたことがふたりの関係に変化をもらたらし、結局、公房は最後の数年、芦ノ湖を見下ろす国立公園内にある山荘にひとりこもって暮らすようになった。
安部ねり安部公房伝』(新潮社、2011)

山口果林安部公房とわたし』を読了。ブックカバーの写真を見るに、とてもきれいな人だと思う。

それはそれ。
本の内容は、「暴露本」というほど意地の悪いものではなく、とりわけ『箱男』以降の安部公房の生活を知るための、重要な証言のひとつとなりうるのだとは思ういっぽう、あまりよい読後感ではない。安部公房自身が、隠しておきたかったとされていることが、赤裸々に語られてしまっていると、それ以外の理由を見つけられないのだが、著者(山口果林)が、あくまで、「自分史」と主張しているのだから、そういうことで納得するしかない。読後感が悪いのは、「安部公房自身が隠しておきたかったこと」が、じつは、僕が、知りたかったことだったということ、そして、知ってしまったということにも起因するのだと思う。
こういう本は、いちど読んで、本棚の奥深くに仕舞いこむのがいいのかもしれない。
いや、まあ、しかし、と思うのだ。
僕は、学生のとき、大学の生協で、生協員価格(1割引)の『安部公房全集』を毎月、せっせと買いつづけていたわけで、しかし、それまで、買って読むことのできる作品はあらかた読んでいたから、何が楽しみだったかというと、書簡やメモ、それから、全集に挟まれた「贋月報」だった。「贋月報」には、安部公房を知る人たちのインタビューが載っていた(インタビュアーは、安部ねりさん。インタビューは、前掲『安部公房伝』にすべておさめられている)。
要は、刊行されている安部作品ではなく、知られざる安部公房の一側面を知りたいという欲求が、間違いなくあった。
そして、その、最たるものが、今回の山口果林安部公房とわたし』である。
 
じつをいうと、安部ねり安部公房伝』が出版されたときにも、それは期待した。
が、ほとんど、肩透かしに終わった。「3,200円もしたのにナー」と思いながら、目新しいことは、ほとんど書かれていなかった。加えて、(全集においてはすばらしかった)近藤一弥の装丁も冴えなくて、カバーの用紙の上で、ワープロに向かう安部公房の写真のプリントが歪んで浮いてしまっていたり、ページの用紙がやけに厚くてめくりにくかったり、「やっつけの本だナー」と思った。これも、1回しか読んでいない。
 
山口果林安部公房とわたし』のブックデザインは、鈴木一成デザイン室。しかし、冴えない装丁である。
本のタイトルも垢抜けないし、文章も決してうまくない。安部公房の関心ごとだった、ピジンクレオール言語や、遺伝生物学、アメリカ論などにも多少触れられているけれど、ちょっと注意して読むと、著者はあまりきちんと理解していないことがわかる。
つまるところ、「暴露本」なのだ。
 
安部公房の取材力、交友関係、癌のこと、作品の描写と生活との関係など、はじめて知ったことがらもたくさんあるなか、しかし、知ってしまえば、たかがそれだけのことと思ってしまう。安部公房が、あえて語らなかったことが、書かれているという、読後感の悪さ。
 
中島らも夫人の、中島美代子が出版した『らも』を読んだときには、そんなふうには感じず、むしろ、中島らものあらゆるエッセイよりおもしろい! と驚愕したほどだったのだが、それとも違う。
 
なんでなんでしょうねー。
  

山口果林『安部公房とわたし』(届いただけ。まだ読んでない)

ミズカネ 「えー、できてるの? 嘘? 絶対に? 賭けてもいい? あたし、そういうのに疎いの、全然気づかなかった」と言いたがる女がいる。そういう女ほど、ほんとは疎くない。いつも誰と誰ができてる、そんなことばかり考えている。俺がそんな「タイプの女」の男だ。だからわかる、できてる、お前の妹と赤鬼は。賭けてもいい
野田秀樹「赤鬼」(『解散後全劇作』、1998、新潮社)

整理が悪いので、『解散後全劇作』を探すのに、30分もかかってしまった。amazonによると、本の定価は2,310円らしい。初版は1,900円だった。
 
僕は、安部公房が好きで、マニア並みに詳しい。サイン本をもっていないのでマニアではないけれど、関連書はだいたいもってる。
どのくらい詳しいのかというと、町内では、いちばん詳しいんじゃないかと思う。子供の小学校のクラスの父兄のなかでも、指折りに詳しいと思う。そのくらい詳しい。
その僕が、知らなかった。いやあ、驚いた。「へえええええええええっ」って、ひっくり返るくらい、驚いた。
「みんな、知ってたの? 俺、そういうのに疎いからさ、全然気づかなかった」と、周りを見回し、挙動不審になってしまうほどである。
山口果林安部公房とわたし』(2013、講談社)が、amazonから届く。
女優、山口果林との同居生活について書かれた、いわゆる、暴露本というのかしら。ほんとうに知らなかった。「周知の事実」だなんて、言わないでほしい。聞きたくない。


本の帯には、過激なコピー。

「君は、僕の足もとを照らしてくれる光なんだ」
その作家は夫人と別居して女優との生活を選んだ。没後20年、初めて明かされる文豪の「愛と死」

真知夫人との別居は知っていた。娘の真能ねりさんも、そのことは語っていた。
それから、全集の月報では、晩年に近くなればなるほど、安部公房がいかに孤独だったか、ということが周辺の人たちの証言として掲載されていて、だからバカ正直に、箱根の別荘にひとり暮らしをつづけていたのだと思いこんでいた。
山口果林という女優については、安部公房スタジオの初期メンバーであったことくらいしか、しらない。新潮日本文学アルバムには、安部公房スタジオ発足時の紹介パーティーの写真が載っていて、そこには、山口果林の姿もある。
安部公房とわたし』は、届いたばかりで、まだ読んでいなくて、いまは、小林エリカ空爆の日に会いましょう』を読んでいるのだけれど、それはともかく、『安部公房とわたし』の封を開けて、最初の数ページをめくると、安部公房山口果林を撮った写真の数々(ベッドに横たわるフルヌード写真も)や、逆に山口果林が撮った(と思われる)見たこともない安部公房の写真が載っていて、びっくりする。
連想したのは、晩年の未完の小説「飛ぶ男」に登場する小文字並子という女性がヌード写真のモデルをしているというくだりや、『方舟さくら丸』のころからだったか、インタビューや手紙やメモで、「過剰性欲」についてたびたびこぼしていること。
・・・なんか、「暴露本」という語彙と、ヌード写真だけで、僕の連想も過剰反応してしまっているみたい。まだ、中身を読んでもないというのに。
読んだら、また、なんか、書きます。たぶん。
  

黒沢清「ドッペルゲンガー」

黒沢清ドッペルゲンガー」を観る。ぽすれんで借りたやつ。これ、以前にも観ている。「CURE」と「カリスマ」は、フランスにいるときに観ていて、それが黒沢清作品との出会いかというとそうではなくて、大学1年生のときに「神田川淫乱戦争」を観ている(周防監督の「変態家族 兄貴の嫁さん」も同時上映だった)。「ドッペルゲンガー」を観たのは日本かフランスかはおぼえていなくて、今回観ても、内容をぜんぜんおぼえていなかった。
どうして、再度、観ようかと思ったのかというと、すでに死んでしまった伊藤計劃の映画評に、「ドッペルゲンガー」は、永作博美がエロいと書かれていたからなのだけれど、エロいか? そのへん、よくわからない。
黒沢清作品を見るのは、ほんとうにひさしぶりで、空気というか、「ああ、こういうかんじだった」みたいのが、すごく、なつかしかった。相変わらず、同じようなのを撮っているのだろうと思うけれど、観たいと思わせる、何かがある。
 

細田守「サマーウォーズ」

ぽすれんでレンタルした、細田守監督「サマーウォーズ」、観る。
おおかみこどもの雨と雪」でも思ったのだけれど、拒絶とまではいわないが、壁ひとつ隔てたところにある世界観で、とりわけ、シーンの随所にみられる、いわゆる「オタク文化」的なものには、「みんな、こういうの、好きだねー」と思う。村上隆の模倣みたいなデザイン。べつに、村上隆もおもしろくないんだけど。
それから、かつての北野武の映画でも鼻についたのだけれど、やけに海外での評価を意識した設定や描写が、多くみられる。「オタク文化」含め、着物や花札といった日本的なアイテムが登場する。
ああ、そうか。すべてがわかりやすくて、都合よくつくられているという、それだけのことなんだな。
一言でいうと、単純すぎて、おもしろくなかった。
 
エンディングロールを眺めながら、それにしても、映画ってのは、たくさんの人がかかわってつくられているものだと思う。
まあ、娯楽だ。芸術の部類じゃない。おもしろいと思う人が「おもしろい」と言って手を叩けばいいだけのことである。
 
大島渚監督の「忍者武芸帳」を観たいのだけれど、ぽすれんには、ないみたい。困った。

 

トム・フーパー監督「レ・ミゼラブル」

ぽすれんで借りていた、トム・フーパー監督の「レ・ミゼラブル」を観る。キャメロン・マッキントッシュ製作のミュージカル舞台の映画化。ミュージカルだからか、英語がやけに聞き取りやすい。フランスが舞台の物語が堂々と英語で演じられることに違和感をおぼえたのは最初だけで、すぐさま、演技とストーリィに引き込まれていく。アン・ハサウェイがとりわけよかった。こういう映画は日本ではつくれないなあと思うのだけれど、「こういう」をきちんと定義してないから、「どういう」のだと訊かれると、「こういう」のだとしか応えられなくて、じゃあ、具体例をあげるとして、観た直後に、率直に「日本ではつくれないなあ」と思った映画といって思いだせるのが、マイケル・ジャクソンのでていた「ムーンウォーカー」だったり、ダラポン監督の「ショーシャンクの空に」だったりで、ますます定義のしようがない。じつをいうと、「レ・ミゼラブル」を観終わったあと、いっしょに観ていた奥さんに、僕は、「こういう映画は日本ではつくれない」と言ったのではなくて、「アメリカでしかつくれない」と言ったのだけれど、調べてみたら、トム・フーパー監督はイギリス出身だし、ヒュー・ジャックマンはオーストラリア出身だし、ラッセル・クロウニュージーランド出身らしい。キャメロン・マッキントッシュは、もちろんイギリス人。配給はユニバーサルだけど、だからといって「レ・ミゼラブル」をアメリカ映画なんて言ったら笑われてしまいそうで、とにかく、「アメリカでしかつくれない」なんてのは間違いで、この日記では、「日本ではつくれない」と言い換えて書き換える。はい、知識不足です。トム・フーパー監督の「英国王のスピーチ」というのもおもしろそうなので、次、借りてみようと思う。
アメリカではなく、「いかにも」イギリスの映画監督といって思いだすのが、ピーター・グリーナウェイで、「英国式庭園殺人事件」、なつかしいな、高校生のとき観たんだ、ぽすれんで借りようと思ったら、在庫がない。なんだあ、そりゃ、ぽすれん